京屋酒造のある日南市油津(にちなんしあぶらつ)は、鹿児島県境まで20 km ほどの宮崎県の南東部に位置します。宮崎空港のある宮崎市からは約 50 km、黒潮の白い波しぶきを眼下に日南海岸沿いに南下すること車で1時間半。昭和初期には東洋一のマグロ基地として栄えた油津港を抱える港町に入ります。
京屋酒造の創業は、天保 5(1834)年です。
当時の油津は、飫肥(おび)藩に属していました。飫肥藩は、藩主伊東氏が、天正15(1587)年豊臣秀吉の島津征伐の際の軍功を認められ、その褒賞として与えられたのが始まりで、明治維新まで続きました。藩政当初より、飫肥の山林、原野に杉を植林して林業を起こしてきました。伐採した杉は造船材として適した飫肥杉として知られ、藩内の需要を満たすだけでなく、各地に出荷され藩の財政を潤すことになります。当時は、筏を組んでの材木の輸送が行われ、飫肥から酒谷川、広渡川を下り、いったん海に出て油津港に運ぶ経路がとられていました。しかし、この経路では輸送距離も長く、また材木流出の危険の多い海に出なければならないこともあり、広渡川と油津港を直接結ぶ運河が計画され、五代藩主伊東祐実の1686(貞享3)年、堀川運河が完成しました。
京屋酒造の創業は、十代藩主伊東祐鐘の時代で、藩士である野中金右衛門(1768〜1846)が植木方、杉方として活躍していたころと重なります。彼は、その後戦前まで続く飫肥林業繁栄の基礎を築いたといわれ、その業績を称えた野中金右衛門顕彰市売会が毎年開催されています。
京屋酒造も創業当時、海産物などの交易業を生業としていたという記録の残る商家でした。飫肥林業をもとに発達した堀川運河に沿って多くの商家が立ち並び、多くの船や人々がゆきかうのが当時の油津の姿です。
その後、油津港は、漁港としても発展します。1900(明治33)年、鹿児島甑島の人が網漁を油津に伝え、これを機に、河宗・京屋(当時の京屋酒造の屋号)・服部家・山本弥平が操業を始めました。1917(大正6)年には油津港は漁港の指定を受け、1931(昭和6)年にかけて港湾整備が行われました。この後しばらくは、マグロの水揚げの最盛期で、日本のマグロ相場は油津によって決まるとさえ言われたようです。
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 図1.日南海岸
 図2.日南海岸
 図3.飫肥杉
 図4.油津港
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